メイフラワー(Mayflower 1620、プリマス、その2)

Provincetown Capecod July 2009

ニューイングランドの基礎を築くこととなったピルグリム・ファーザーズ (Pilgrim Fathers)については、このブログでは特には触れませんが、1620年のメイフラワーの航海について簡単に書いてみます。

清教徒(Puritan)を含む102名はメイフラワー(Mayflower)に乗船し、1620年9月16日に英国のプリマスから、北バージニア入植地に向けて出航しました。実は、メイフラワーは僚船スピードウェル(Speedwell)を伴い2隻で8月15日にサウサンプトン(Southampton)を出航していたのですが、スピードウェルの水漏れ修理で2度に亘り英国に戻っていたのでした。結局、メイフラワー1隻で出航したのですが、65日の航海の後に、目的地であったハドソン川付近から大きく北に逸れ、ケープコッドに辿り着いた時には11月21日で既に冬が到来していました。

冒頭の写真は、ケープコッドのプロビンスタウンにあるメイフラワー誓約(The Mayflower Compact)を署名する場面を彫ったモニュメントです。プロビンスタウン(Provincetown)は夏休みで多くの観光客が訪れており、車を駐車するのにも時間が掛かる程でしたが、目抜き通りからちょっと奥まったところにあるPiligrim Monumentの辺りは、静寂に包まれていました。

このメイフラワー誓約は、当初予定していた目的地(ヴァージニア会社の領土として英国国王から承認されたハドソン川の河口、今のニューヨークのあたり)から逸れて到着したことから、新たな規約が必要となったことから作成されたそうです。次に引用する一部の内容からアメリカ最初の社会契約と伝えられる所以が良く判ります。

Covenant and Combine ourselves together into a Civil Body Politic, for our better ordering and preservation and furtherance of the ends aforesaid, and by virtue hereof to enact, constitute and frame such just and equal Laws, Ordinances, Acts, Constitutions and Offices, from time to time, as shall be thought most meet and convenient for the general good of the Colony, unto which we promise all due submission and obedience.

メイフラワーは、先住民との衝突もありケープコッドを離れ、1620年12月21日にプリマスに到着します。ここで厳しい冬を迎えることになるのですが、乗員と乗客は、1621年3月31日に陸上に建設した開拓地に完全に移動するまで船内で過ごすことなりました。この冬の間に、102人の乗客の半分が病気などで亡くなり、乗員数(25~30人)も同じく半分が亡くなったそうで、大変な困難を伴った入植でした。

Mayflower船上

上の写真は、船上で撮影したものです。当時の服装をしたガイドが説明をしてくれます。この30m程の小さな船に130人も生活していたとは想像も出来ません。下の写真は船尾の船長の寝室だそうですが、これでも船内では贅沢な部屋だったのでしょう。心温まる雰囲気ではありませんね。

Mayflower船長寝室

乗客が生活した場所では、これも当時の服装を着たガイドが質問に答えてくれます。悲しそうな表情で厳しい生活を説明してくれました(因みに説明を聞いているのは当時12歳の長女。帽子は当時9歳の長男です)。

Mayflower乗客居住区

帆船メイフラワーの記事から話が脱線してしまいました。次の記事では、復元船Maylfower Ⅱの各部を撮影した写真を何点か紹介したいと思います。

テーマ : 帆船紀行 - ジャンル : 旅行

コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する