Menorca 2019 (メノルカ島)Port Mahon(ポート・マオン)前編

この地図は1813年に英国で発行されたもので、Hotel Del Almiranteのロビーに掛かっていたものです。ホテルの位置が、Collingwood Houseとして表示されています。1810年3月7日にポート・マオン沖のHMS Ville de Parisの艦上で息を引き取ったコリングウッド提督が最後に滞在した邸宅として当時から有名だったのかも知れません。
Port Mahon(ポート・マオン)は、奥行きが約5km、もっとも幅が広いところが約900m。湾の入り口が狭く、まさに天然の良港です。
マオン湾クルーズは、Port Mahon Dockyard(ポート・マホン海軍工廠)から始まります。この基地は現在スペイン海軍が管理していますが、1708年に英国海軍地中海艦隊の司令官であったビング提督(後の初代トリントン子爵、海軍元帥)が、海軍工廠の設置を命じたことから歴史が始まります。この写真は、Illa Pinto(変形八角形の人工島)は、複数の軍艦が同時接岸出来るように設計されています。1800年にジャック・オーブリーがHMSソフィーに12ポンド追撃砲を積み込んだ軍需品埠頭も同じ場所でしょうか。

この写真は丁度ポートマオン港口を出た位置から撮影したものですが、中央に見えるサン・フェリペ塔と左側のサン・フェリペ要塞の間は地図上で300m程度の距離しかなく、浅瀬もあるので実際の水路は200m以下の幅しかないのではないかと思います。

英国はメノルカ島を1802年のアミアンの講和条約でスペインに返還しております。つまりジャック・オーブリーが1805年にマオンで囚われていたマチュリンを助け出すために、フランスから拿捕したガンボートでポート・マオンに乗り入れた時はスペインの統治下でした。同時スペインはフランスと同盟を結んでいましたので、まさに命懸けの遠征でした。もちろん、これは史実ではなくフィクションなのですが、観光船の船上でサン・フェリペ塔の廃墟を眺めた時に想像していたのは、『..そして砲艦は静々と港口を通り抜けた。水際に並ぶ42ポンド砲の筒先へ、堅パンを方れるほどの近間だった..』HMS Surprise(日本語版、早川書房)という場面でした。

確かにこの塔の下の水際に並んだ42ポンド砲の攻撃を受けたらガンボートが吹き飛びそうです。暑い8月の太陽に焼かれながら、観光船のデッキから砲台の残骸を見て背筋がヒンヤリする不思議な経験をしました。

在りし日のGeorgetown(現Es Castell )を左手に更に進むと正面に病院島(Illa del Rei)見えてきます。1711年に英国海軍が創設した病院は英国海軍のみならず、その後、スペイン、フランス、アメリカ海軍にも使われたそうです。この島の見学が出来るのは日曜日(5月から10月迄は金曜日も)の限られた時間帯だけですので、今回訪れることは叶いませんでした。

左手の断崖の上にコリングウッド・ハウスが見えてきます。この建物は英国統治下の18世紀中旬に建設されたそうですので、マスター・アンド・コマンダーの小説には登場しませんが、ジャックとステーブンもHMSソフィーの艦上からこの風景を眺めていた筈です。
Menorca 2019 (メノルカ島)

今年の夏の休暇は地中海のメノルカ島で過ごしました。
冒頭の写真はCala Macarellaのビーチ沖に停泊しているボートをドローンから撮影したものです。
海水の透明度が高く、まるでボートが空中に浮かんでいるように見える景色を求めてメノルカ島までやって来たのですが、実はもう一つの目的がありました。

この写真は、ポート・マオンの突堤から見上げた総督邸(Governors House)です。今はスペインの国旗が掲揚されていますが、メノルカ島は1708年から1802年まで英国の統治下にありました。
“The music room in the Governor’s House at Port Mahon, a tall, handsome pillared octagon, was filled with the triumphant first movement of Locatelli’s C major quartet...."
"ポート・マオンにある総督邸の、天井が高く、円柱の立ち並ぶ立派な八角形の音楽室は、ロカテリのハ長調四重演奏曲第一楽章の勝鬨をあげる音色でつつまれていた。”
引用したのは他でもないパトリック・オブライアン著のジャック・オーブリー・シリーズの幕開けの場面です。ジャック・オーブリーとスティーブン・マチュリンは1800年4月にこの建物の中で出会ったのでした。

ポート・マオンで数日過ごしたのは、これも英国海軍の所縁が深いHotel Del Almiranteです。英国風の邸宅がホテルに改装されているのですが、ここは1810年2月末から地中海艦隊司令官コリングウッド提督が英国に向けて出港前の2週間を過ごした場所なのでした。
コリングウッド提督が陸に上がっている間は、この建物の沖合に、多分上の写真のヨットがいるあたりに、旗艦である110門搭載の一等戦列艦HMS Ville de Parisが停泊していた筈です

Master and Commander を片手にポート・マオンの散策をしていきたいと思います。
STV SEDOV 1921 (バーク型帆走練習船セドフ) その4

Sedovをじっくり眺めていると、どうしてもPekingを思い起こします。SedovはFlying P-Lineのフリートではなく、建造されたのもPekingの10年後ですが黒い塗装のためでしょうか。無骨な貨物帆船そのままのSedovの舷側に近寄ると、100年近くの時間を刻んだ重みを感じました。

本当のFlying P-LinerであったKruzenshternより、往年の帆走貨物船の雰囲気を感じるのは、塗装と共に控え目なブリッジ(船橋)の為かもしれません。Krusenshuternは、ソ連時代に設置された近代的な大型ブリッジが幾分雰囲気を削いでしまっているような印象を受けます。

帆船パレードでは、残念ながらセールは揚げてくれませんでしたが、やはり停泊している姿とは違います。ボートで近くによると28mmの広角レンズで漸く全景を写真に収めることができる程の大きさでした。

どこから見ても美しい姿ですが、このクオーターバックからの眺めは最高です。黒と白の船体、喫水下の赤の塗装と見事にFlying P-Linerの塗装パターンを踏襲しています。もっともKommodore Johnsenの船名でNorddeutscher Lloydが運行していた時代(1936-1945)の写真を見るとやはり黒と白の船体ですので、F. Laeiszの往年のフリートの専売特許ではないのでしょうが。

先行する真新しく華があるStad Amsterdamの後ろを悠々と進む巨大なSedovの姿が印象的でした。いつかセールを揚げた姿を見てみたいものです。

これでSEDOVの記事は終わりにします。
STV SEDOV 1921 (バーク型帆走練習船セドフ) その3

長いPoop DeckからUpper Deckに降ります。Upper Deckにでは、船員がタバコを吹かしていました。大らかな感じですね。昔のソ連とあまり雰囲気が変わっていない気がします。ソ連時代と異なると思われるのは、Upper Deckから見えたロシア正教の礼拝所でしょう。無論、ソ連時代にもロシア正教の寺院は存在しましたが、少なくとも練習船の中に礼拝所はなかったのではないでしょうか。

デッキの端で土産物が売られていました。トレーナーとかTシャツとかバッジとか細々としたものです。担当していた船員に声を掛けたら、「昔極東で船員をしていた。日本には何度も行ったよ。函館とか小樽とか」とお約束の内容ですが少し嬉しくなりました。余り気が利いた物はなかったのですが、Седов(ロシア語でSedov)と書かれて4本マストの帆船が描かれている小さなマグネットとバッジを買いました。2009年にハリファックスでKuruzenshternの船上でも似たようなバッジを買ったのを想い出しました。

フォアキャッスルに上がる前に船首部分を覗いてみると、アンカーウインチの手前に安全パーネスらしきものが架かっていました。この船は鋼鉄船ですが、写真の通りデッキ材がマージンプランクに綺麗にジョグリングされていました。

フォアキャッスルからUpper Deckを見下ろすと、改めて巨大な帆船であることを実感します。
船首に目を移すと船鐘が吊られていました。綺麗に磨き込まれた真鍮製のシップベルは、古今東西同じ習慣ですね。

Sedovのリギングの合間から僚船のKuruzenshternが見えます。世界最大の帆走練習船から世界第2位の帆走練習船を眺める贅沢を味わいました。

SEDOVの記事は次に続きます。
STV SEDOV 1921 (バーク型帆走練習船セドフ) その2

Sedovの記事を再開します。
船上に上がると大型帆船らしい広いデッキが広がっています。
上記の写真は、船尾楼甲板(Poop Deck)の後方から撮影したものですが、甲板の左右にブリキ製のカバーがされた突起物が延々と続いており、足を引っ掛けてしまいそうです。

このブリキの突起を辿っていくと、Poop Deckの前方に位置するナビゲーションハウスの前に鎮座している大きな舵輪に接続されていました。ということは、舵を動かし操船する為のケーブルが延々と甲板を伝って張っているいるのでしょうか?確かに今一度、このブリキの突起を辿ると、後部甲板のラダー装置に行き着きました。なんと原始的な構造なのでしょうか。多分、帆走練習船として実用的な機能として後日追加されたのかもしれませんが、なんともソ連的な感じがします。

さて、さらにPoop Deckを前方に進むと元来の帆走輸送船の雰囲気が満喫できます。メインマストの付け根にある錆びだらけのケーブルが巻かれた油まみれのウインチを見ると、小綺麗なStad Amsterdamと対極にある帆船であることを実感します。

時折、曇った声の船内ラジオ・アナウンスが流れてきます。無論ロシア語です、流石に伝声管ではないでしょうが、まるで昔の映画のような雰囲気です。メインマストを見上げると整然としたリギング、綺麗に巻かれたセールが目に入ります。

次は船体後部から中部に繋がる長いPoop DeckからUpper Deckに降ります。